ボディガードはクライアントを守りきって、「是」であり、失ってしまってはどんな言い訳も通用しない。それは「非」であり「万死に値する」と言っても過言ではない。しかし、人に与えられた命は一つしかない。その一つしかない命を他人にために投げ出し、守りきる覚悟はあるだろうか。
究極の話にはなるが、最善を尽くしたのにも関わらず逃げ場のない最悪の状況に陥った場合はどうするか。戦国の世であれば、窮地に陥った際に家臣が主君を守るために何重にもなって敵の攻撃の楯となり死んでいく。
家臣がそこまで駆り立てる意とは何か。主君の為なら命を捨てても惜しくはない。そんな覚悟でもなければ身を挺しても守ろうとする気持ちになれるはずがない。まさに武士道精神である。
「葉隠」にはこう記されている。「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」。これによると、「武士道とは死ぬことである」しかし、我々の仕事は死ぬことを覚悟しての行動とは違う。
クライアントを生命を守るために自らも生きようとする。死に対する恐れがあるからこそ、ありとあらゆる策を講じて最悪の情況を回避することに努める。これがセキュリティのプロフェッショナルである。
それでは・・・ヤクザ社会におけるボディガード(用心棒)の存在意義とはいったい何か。「名声」そして「死にざま」。この世界においては、その人間がどのような死に方をしたのかが大事である。
死にざまイコール「生きざま」とも言えるかもしれない。彼らにとっては「死にざま」は「生きざま」以上に大事なのかもしれない。そう考えると、ヤクザ社会におけるボディガード(用心棒)の本文とは「死の覚悟」に帰結する。
その意味は武士道精神と同じである。しかし、我々の意味するボディガードは武士道精神を重んじない。なぜなら、我々は「死の覚悟」などは一切持っていない。持っているのは、生きて生還することだけである。ここがボディガードと用心棒の違いでもある。
名声や死にざまを気にするのであれば「用心棒」。セキュリティのプロフェッショナルを目指すなら「ボディガード」である。しかし、日本において、ボディガードと名乗っている人はどちらかと言えば、用心棒に近いかもしれない。なぜなら、名声やかっこよさだけを求めている人が非常に多い。
用心棒と言ってもヤクザ社会の用心棒ではない。なぜなら、彼らにはそれほどプライドは無いだろう。皮肉って言えば、ボディガードごっこをしたい人やしている人が非常に多いってこと。そう考えるとヤクザ社会の「用心棒」の方が違う意味での真のプロフェッショナルなのかもしれない。